ロシアの音楽<歴史>


 10世紀にギリシア正教を国教としたロシアは、カトリックのラテン語に基く宗教音楽とは異なり、母国語に翻訳された聖書から民族色豊かな独自の教会音楽を発展させた。それは16世紀に最盛を迎えるが、18世紀になると、ピョートル1世が西欧化政策を進め、西ヨーロッパの文化を積極的に取り入れ始めたことで、合唱やオペラが浸透し始めた。18世紀の後半にはエカチェリナ女帝がロシア宮廷にイタリアの有名なオペラ作曲家を招きいれ、大いに刺激を受けたロシアの作曲家たちがオペラの創作に取組んだ。しかし、真のロシア的音楽の創作は19世紀以降のことであった。グリンカは民族的な音楽語法を尊重し、国民楽派の基礎を打ち立てた。後にグリンカのこの考え方にバラキレフ、キュイ、ボロディン、リムスキー・コルサコフ、ムソルグスキーらの「五人組」が続き、ロシア国民楽派の中心的存在であり続けた。一方、西ヨーロッパの洗練された美しさによって西欧派とも呼ばれるチャイコフスキーが現れ、ロシアの創作界は活発に展開し始めた。音楽は民族生活を潤す存在となり、音楽教育機関が求められるようになった。次々と音楽学校が設立され、優秀な人材を数多く輩出し始めた。日曜作曲家と見られていた「五人組」のメンバーも音楽学校の教師に迎えられ、プロ意識を持って作曲に励むようになったことも大きな進歩であった。

 モスクワからはともに大ピアニストで作曲家であるラフマニノフ、スクリャービンが現れた。また、ヨーロッパでの音楽語法の大きな変化に背を向け、生涯ロマンティックな作品を作り続けたラフマニノフに対して、スクリャービンは、神秘和声と呼ばれる独特な和声を使って、神秘主義を主張した。

 ペテルブルグからは2人の進歩的な作曲家、ストラビンスキーとプロコフィエフが現れ天才の名をほしいままにした。ストラビンスキーは、華麗な楽器法と不協和な和音、乱れ狂うリズム等でパリの聴衆を熱狂させた。しかし、1917年に起こった十月革命により音楽家の立場は一変し、人民の心を慰め愛国心を高めさせる役割を担うようになる。これが社会主義リアリズムで、スターリンが政権を握った後、国家が創作活動を統制した時期があった。この中にあってショスタコービッチは、オペラ・オラトリオをはじめ、15曲の交響曲など旺盛な創作活動で、自己の作風を展開させた。ほかに、ハチャトゥリヤンやカバレフスキーなどの活躍も見逃せない。


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